今回は戦中の大ヒット曲《勘太郎月夜唄》で盛り上がった会話について書こうと思います。
《勘太郎月夜唄》は昭和18年、第二次大戦中であるにもかかわらず、股旅ものの映画「伊那の勘太郎」の主題歌として大ヒットしました。主演は長谷川一夫と山田五十鈴です。
昭和18年というと、昭和元年生まれの人が18歳、志願して兵隊になった方もいたことでしょう。勉強したくても学徒動員で工場や農作業をしていた方もいらしたでしょう。昭和初期の方々には子どもの頃の思い出の曲となるわけですね。
大正前期の生まれの方は子育てに忙しくしていたかもしれませんし、後期の方は結婚する年頃でも男性が兵隊に行っていてそれどころではなかったでしょう。
そんなふうに歌の背景で参加者がどのような暮らしをしていたのかを想像することが大切ですね。
ところで、《勘太郎月夜唄》はこのような歌です。歌は小畑実と藤原亮子が歌っています。
勘太郎月夜唄 作詞佐伯孝夫 作曲清水保雄
1.影か柳か 勘太郎さんか
伊那は七谷 糸ひく煙り
棄てて別れた 故郷の月に
しのぶ今宵の ほととぎす
2.形(なり)はやくざに やつれていても
月よ見てくれ 心の錦
生まれ変って 天竜の水に
うつす男の 晴れ姿
3.菊は栄える 葵は枯れる
桑を摘む頃 逢おうじゃないか
霧に消えゆく 一本刀
泣いて見送る 紅つつじ
このような娯楽映画がなぜ戦時中にもかかわらず公開されたのかは、映画の内容が関係しています。幕末の時代、勘太郎が水戸藩から出た「天狗党」という尊王攘夷派の一団に加勢した、ということが検閲を通った理由のようです。この歌の3番にも「菊は栄える 葵は枯れる」という歌詞があるのもこんな意味からです。
まあ、そんなわけでできたこの映画に一般大衆は楽しみを見出し、大ヒットとなりました。なので、《勘太郎月夜唄》を知らない高齢者はいません、と宣言できるほど誰もが知っています。
さて、本題です。
3番に「桑を摘む頃」とあります。そこで、参加者のみなさんに「桑っていつ頃摘むんですか?」と聞いてみました。すると、ある人が、「えぇっと、春かな?」すると、「いや、春と夏と秋、年に3回だな」また他の人が「4回だったよ」と発言がポンポンと出てきました。詳しく「春は枝ごと切ってあげるんだよ」と説明する人も。
そして、「農家にとってはいい副収入だったんだよ」「繭を売ってくるとお祖父さんがその頃めったに見たこともない1000円札を「ほらこれが1000円札だぞ」って見せてくれた」。
また、「子どもだったけど蚕が桑を食べる音が気持ち悪かったなあ」「そうそう、雨が降ってるみたいな音がするんだよね」
こんなことも、「桑の葉を毎日毎日籠に入れて担いで往復するんだよ、大変だったよ」
「学生だったけど学徒動員で群馬の農家に住み込んで手伝ったことがありました」「桑の実もよく食べたよ」「口が紫色になっちゃうんだよね」「それで食べたことが分かっちゃう」(童謡《赤とんぼ》に桑の実が出てきますね)「お祖母さんが糸車で繭をくるくる回しながら糸を紡いでいたのを思い出したよ」
「桑を摘む頃」という言葉がこんなにもたくさんの反応を生むとは思ってもみませんでした。これを聞いたのが埼玉の農村部という土地柄も影響していたと思います。このことをきっかけに、参加者同士がお隣さんと話しあい、思い出を共有し合い、次の歌に移れないくらい盛り上がりました。
実は私は蚕の餌が桑の葉だったことは知っていましたが、年に3回も4回も摘むとは知りませんでした。調べてみますと、蚕は家畜に当たり「匹」ではなく「頭」と数えるのだそうです。また、野生の蚕はいなく、もし蚕の幼虫を桑の木に放しても、捕獲されてしまうか地面に落ちて死んでしまうそうです。羽化して成虫になっても飛ぶことはできないそうです。
《勘太郎月夜唄》には他にも「伊那」「七谷」「天竜」「一本刀」「ほととぎす」などキーワードがあります。
このころの歌には「生活」、「季節」、「場所」、「心情」といった題材がちりばめられているのです。
歌をうたうことは、回想し思い出を共有することで心を安定させる効果と、忘れていた事柄を思い出すことで脳を活性化する効果、嚥下や心肺の機能向上にも効果があります。
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今でも青春 (月曜日, 07 12月 2015 11:46)
昔蚕を飼っていました。書いてあることと似たような事をしました。最後に絹を取ります。なた、桑の木の皮を剥いで水につけ繊維だけを取って農協?に出したようです。綱を作るらしいと聞いたようです。
玲子 (月曜日, 07 12月 2015 12:01)
今でも青春さま
コメントありがとうございます!
桑の木の皮の利用法、さっそく今日の参加者のみなさんに聞いてみます。
貴重な情報、ありがとうございました。