高齢者の方々に人気の高い美空ひばりの半生をプログラムにしてみました。
美空ひばりは、昭和12年(1937年)5月29日、横浜市磯子区の魚屋の長女として生まれました。
上手い歌が評判だったので、8歳のとき(昭和20年・終戦)、母親が自前の楽団を作り、公民館や銭湯で歌い始めました。
娯楽が少ない当時は、子どもであっても、うまい歌は人々を喜ばせたのでしょう。
9歳でNHK素人のど自慢大会に出場しますが、「子どもらしくない」で落選してしまいます。
ひばりはあくまでも本格的な歌を歌っていたので、この頃評価は二分したようです。
- リンゴの唄 サトウハチロー作詞 万城目正作曲 並木路子 昭和20年
「リンゴの唄」が流行ったのは戦後すぐ、ひばりは8歳でした。
NHK素人のど自慢大会で歌った歌が「リンゴの唄」でした。
- 東京ブギウギ 鈴木勝作詞 服部良一作曲 笠木シヅ子歌 昭和23年
のど自慢大会では落選してしまいますが、11歳の時、川田一座(川田晴久)に入団し、笠木シヅ子の物真似で人気者になります。
笠木シヅ子はブギの女王と呼ばれていました。
- 悲しき口笛 松浦洸作詞 万城目正作曲 美空ひばり 昭和24年
そしてついに、12歳で映画にデビュー。一躍有名に!
初の主役映画「悲しき口笛」は45万枚を売り上げます。
- 東京キッド 松浦洸作詞 万城目正作曲 美空ひばり 昭和25年
13歳の時の主演映画「東京キッド」の主題歌。
「悲しき口笛」と並び、天才少女歌手ひばりの初期のヒット曲。
- テネシーワルツ ピー・ウィー・キング作曲 レッド・スチュワート作詞/和田壽三訳詞 江利チエミ 昭和27年(日本)
昭和30年(18歳)、映画「ジャンケン娘」で江利チエミ・雪村いづみと共演し、これまた人気が出て、三人娘と言われる。
「テネシーワルツ」は江利チエミのデビュー曲で代表曲。
英語の箇所は歌うのは難しいかもしれない。
- 熱き心に 阿久悠作詞 大瀧詠一作曲 小林旭 昭和60年
25歳で、俳優の小林旭と結婚。
結婚生活は2年と短いものでした。
「熱き心に」はどちらかというと男性が好む曲かもしれません。
高齢者施設には、昭和13年生まれの小林旭と同年代の男性が多くなりました。
気持ちよく大きな声で歌える曲です。
- 柔 関沢新一作詞 古賀政男作曲 美空ひばり 昭和39年
離婚直後の大ヒット曲。
東京オリンピックが開かれた年でもあり、180万枚を売り上げる。
翌年、日本レコード大賞受賞。
- 悲しい酒 石本美由紀作詞 古賀政男作曲 美空ひばり 昭和41年
数あるヒット曲の中でも、「悲しい酒」が好きな方はとても多いです。
どうしても、小林旭との離婚と重ね合わせてしまいますね。
いつもポロッと涙を流して歌う、ひばりの表情が忘れられません。
- 真っ赤な太陽 吉岡治作詞 原信夫作曲 美空ひばり 昭和42年
当時はミニスカートブームの真っただ中。
美空ひばりもミニスカートで歌いました。
70年代~80年代は大きなヒット曲は生まれませんでした。
昭和48年(1973年36歳)には弟の不祥事バッシングを受け、テレビや舞台から姿
を消しました。
母親(81年)と、二人の弟(83年、86年)が次々と亡くなり、寂しさを紛らわすように、酒と煙草の量が増え、ひばりの身体を蝕むようになりました。
- みだれ髪 星野哲郎作詞 船村徹作曲 美空ひばり 昭和62年
昭和61年(1986年49歳)、慢性肝炎、両側突発性大腿骨壊死症で入院。
入院から3か月後に退院。
そしてその2か月後に「みだれ髪」をレコーディングします。
心を歌に傾倒させて歌い上げるこの歌が好きな方は多いことでしょう。
- 川の流れのように 秋元康作詞 見岳章作曲 美空ひばり 平成元年
51歳、東京ドームで不死鳥コンサートを成功させますが、翌年死去。
享年52歳。
「川の流れのように」は不死鳥コンサート後に吹き込んだ最後の曲です。
歌う人が自分の人生を振り返りながら歌うことのできる曲です。